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●通信隊に転属
陸上自衛隊中央通信所久里浜支所から陸上幕僚監部基地通信隊に転属。同隊の大隊長は通信学校の教官だった須田忠誉さんだった。「伊藤来たか」というのが須田大隊長の最初の言葉でした。
確証はないけれども、「渥美さんと須田さんが私を呼んでくださった」と、当時は、いや今もそう思っています。須田大隊長も私を官舎に招いてくださった。配属された通信隊は二十四時間体制で防衛庁の実務通信を行っていました。夜勤明けに「風呂に入れ」と須田大隊長が官舎の風呂に入れてくれたことはうれしく、今でも思い出されます。
本当に私は上司に恵まれていたと思います。そうしたご縁の影響かどうかは分かりませんが、私は順調に昇進し、通信隊配属から間もなくして三等陸曹になりました。昇進後、長崎県佐世保の第5陸曹教育隊に入校。通称「鬼の5曹」と呼ばれる教育隊で、厳しい訓練で有名でした。
実務通信を専門に歩んできた私は、鉄砲を持ったことがなかった。駐屯地を警備する警衛も務めたこともない。行軍すれば落伍、ジープに乗せてもらって帰隊。体力テストも劣っていた。基礎体力がないことを痛感させられた。三カ月の教育隊はまさに「地獄の日々」のように思えました。同じ大隊からは桑久保昇さん、小川和夫さんと一緒でしたが、お世話になりました。ありがとうございました。
第5陸曹教育隊から原隊復帰となりましたが、防衛庁は深川から霞ケ関に移っていました。期待に応えられなかった教育隊でしたが、「体力は劣っても、事務処理については負けない」という逆に意欲がふつふつとわきあがりました。
それにしても防衛庁は、金バッジの将官ばかり。近寄りがたい幹部の中で、その一員として勤務できたことは誇りでもありました。しかし、そうした中での仕事は目に見えないストレスがあったのか、耳鳴りが止まらない病気にかかってしまったのです。それは治らず、持病になっていますが、その耳鳴りを契機に、栃木県那須町にいる家族のことの心配も重なり、精神的にも弱ってきた。
そんな折、青森県に岩手、秋田、青森を管轄する第9混成団が編成されることが分かり、その要員として志願しました。それを聞いた須田大隊長が飛んできて「何が不満なんだ」と理由を聞くのですが、はっきりとした理由をお話することはできませんでしたが、私はこれ以上、東京の生活に耐えられなかったのです。申し訳ない思いだけでしたので…。
昭和三十二(一九五七)年秋、青森県の第9混成団に転勤、基地通信隊の通信事務処理担当として勤務することになりました。柴田虎城さん、中野健三さん、神田修身さんに大変お世話になりました。
半年もたたないうちに陸上自衛隊通信学校に入校。二度目の入校ですが、近代化が急速に進む情報通信分野だけにその変化に対応する必要があってのことで、私は混成団を代表して四カ月、学んできました。しかし、転機は間もなくやってきました。
(題字は筆者)

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